2月自作/「キス『いてらチュウ』」

 

人前でキスなんて出来ないじゃないですか。欧米人じゃあるまいし。

 

ドラマとか映画の中では、例えば新幹線のホームでとか、空港の出国ロビーとか、

観てる時は違和感ないんだけども、いざ自分がって時には、他人が一人でも視界にいる

状態で彼女とキスが出来るかというと、全く自信がない。というかほぼ実績がない。

 

もともと恥かしがり屋の僕。結婚式の2次会での盛り上がりの中ですら人前でキスは

出来ず、場を白けさせてしまった。正直に言うと、教会での誓いのキスですら

実は0.01秒の早業で新婦を筆頭に、神父さんを含めギャラリーの皆さまを落胆させた。

先ほど「ほぼ実績がない」といった「ほぼ」は0.01秒なんだ。

 

妻は制作会社で働くエディターで、僕は広告代理店の制作。

4年前にあるイベント企画で合同作業することになり、そこで知り合って意気投合。

1年後、ある取材で猫が処分されそうになってて、つい「私飼います」と手を上げた

彼女だったが、自分のアパートでは飼えそうになく、僕のマンションに猫共々転がり

込んできた次第。

現在二人とも30歳。子供はまだ。

 

妻が不調を訴えていたのは半年も前なんだけど、忙しさにかまけて病院もいかずに、

ついに先日会社の階段で倒れた。その時足を折って全治2ヶ月の重症で入院したんだ

けども、実は怪我なんて大したことなかったんだ。

 

毎朝、出勤前にちょっとだけ妻の様子を見に行く。

「・・・じゃあ、そろそろ会社行くわ」

「あ、うん。じゃ、ん!ん!」 唇を…

「ん?…て、な、なに?」  まさか!?

「いってらっしゃいのチューでしょ、ほらほら」 んなこと今までしてませんよぉ。

「バ、バカ…み、皆さんおられるでしょ!」 4人部屋の病室です。他3人はご老人

ですが。

「退院したら子作りしよね!」 またまたそんなことを…

 

しばらくしたある日、担当医によばれた。そこにはいつもと違う別の医者がもう一人いた。

その医者から見せられた別部位のレントゲン写真と丁寧な病状説明は、妻の残りの命が

そう長くないことを素人の僕にも理解させるのには充分すぎるほどだった。

 

頭が真っ白になった。

 

「先生何の用だったの?」

病室に戻ると、ベッドの中で妻の心配そうな顔

「ああ、きみのPCのキー叩く音、少し静かにって注意されたよ。それと調子よければ

来週から数日なら一時帰宅できるって」 うそをつく。

「ほんとー?よかったー」

「ミラ心配だったんだ〜。寂しがってるかなぁ…」

ミラとは結婚のきっかけを作った猫だ。3歳になる雌の雑種。

「…残念ながらキミがいなくてノビノビしてるよ。」 

 

煙草を吸いに行った外科病棟の喫煙スペースで、ゴシップおばちゃん患者さん達に捕まる。

「あんちゃん、先生に呼ばれとったな」

「なんやったん?…まさか、奥さん…」 ビクッ

「オメデタかいな!」

「妊婦が階段から落ちたらあかんやろ」 …好き勝手いってる…

 

オメデタという言葉で、いきなり現実に引き戻された。

つい先日、妻に「退院したら子作りしよ」って言われた。

 

津波のように、いろんな思いが、次から次から溢れ出て…

気がついたら病院のロビーで、突っ立ったまま泣いていた。

 

涙が止まらない。ヒトノカラダノ60%はスイブンデス。涸れてしまえー。

 

まったく記憶にないんだけども、どうやら一度家に帰ったようだ。

タクシーで移動しているとき、横に猫用のキャリングケースがあり、中でミラが寝ていた。

タクシーが止まった場所は、妻の入院している病院だ。

 

もちろんホントは絶対ダメなんだけど、病室に猫を連れて行った。たまたま看護師とも

出会わず注意されることもなかった。

 

「あれ、どーしたの?忘れ物?」 ノーテンキに妻。

「ミラがきみに会いたいって」 一応カーテンを閉めて、ベッドの上にミラを置く。

「(あぁ〜)」 小声の歓声 

「だめなのに〜見つかったら怒られるよ」…いいんだよ

ミラは平然と妻にゴロゴロいいながら顔を摺り寄せる。そしてまるで全てを了解しているように、

二人の間で丸くなり、「ナオッ」って一声鳴いてただじっと僕を待っていた。

 

「うん、忘れ物取りに来た」

「え、なに?鞄忘れちゃった?どんく…」

 

妻が喋ってる最中に、頭と腰に手を回して、キスをした。結婚式の千倍長いキスだ。

 

誰が見てようが、喫煙スペースのゴシップになろうがかまうもんか。僕は妻を愛している。

 

「いってきます。…ミラ行くよ」 ミラは物知り顔でおとなしくキャリングケースに入る。

「あ、いってらっしゃい」 ほんのり頬を赤らめる妻。

 

もう泣かない。これから僕たちの戦いが始まるんだ。今夜妻と話をしよう。きっとキミは

泣いちゃうだろう。だから僕が元気づけなきゃいけない。泣いてなんかいられないんだ。

自宅に向かうタクシーの中で僕はそう誓った。

 

隣でミラが僕を心配そうに見つめていた。

 

著作 ディー

2011.2.13     

 

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